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欧州の宇宙輸送の発展

(7)アリアン初号機打ち上げまで:後編

フランス国立工芸院・技術史研究所(CNAM、CDHTE)研究生 翻訳・執筆業

浜田ポレ志津子

 今回は、遂にアリアン・ロケット初号機が打ち上がった1979年12月24日までの様子を書かせていただきます。前回は主にプロジェクトの進行に関わった政治的背景を取り上げましたが、今回は開発が進むにつれて形作られていった技術面の方針に触れていこうと思います。加えて、少し物語風になりますが打ち上げ時のエピソードもいくつか挿入しました。

 

1. 次なるアイデア:2機同時打ち上げ

 

前回紹介したように、フレデリック・ダレストをはじめとするアリアン・プログラム統括本部は、商業打ち上げ市場への参入を狙い始めました。そして1978年12月、インテルサット衛星の打ち上げ契約を獲得することができました。

しかしダレストは次なるアイデアを出してきます。「衛星2機の同時打ち上げ」です。主要衛星を載せてから余った場所に他の小さな衛星を載せて同時に打ち上げる形のピギーバック方式ではなく、主要衛星を2機、フェアリングの中に備えた装置に据え付けて打ち上げる形です。

新機能ですが莫大な開発費がかかるものでもなく、また顧客にとってはロケット1機の打ち上げ費用を分担できるはずで、商業打ち上げ市場での躍進を狙うためには強い武器になると考えられました。実際、顧客の負担はそれぞれ1500万USドルほどの低減になると見積もられました。

 

そして、この案は承認されSylda(シルダ:Systeme de Lancement Double Ariane*)と呼ばれる装置の開発が始まります。シルダのプライム・コントラクタはロケット全体の施行責任を持ち、機体も製造しているアエロスパシアル社(現EADSアストリウム社)が、シルダの分離システムはSAAB社が請け負うことになりました。

この新装置の開発で要求されたポイントは、容量を大きくかつ頑強にすること、しかし重量は極力小さくすること、そして各顧客のペイロードの異なる仕様に対応できる柔軟性を残しつつ、シルダと2機の衛星間での通信システムを統一していくことでした。

開発中最も難しかった点は2回目に分離する衛星の回転だったという記述があります。1機目が分離された後の短い時間の中で如何に2機目が目的の軌道に進んでいける体勢をとれるか、ということです。しかし、開発グループはこの点も克服し、シルダは、1980年代前半に予定されているアリアン1ロケットの5号機から導入されることになりました。残念ながら初めて導入された時の打ち上げは、第3段のエンジンの不具合で失敗の結果に終わってしまいます。その後、1983年6月、6号機の打ち上げの際、シルダの機能は正常に働くことが証明されました。 (*仏語アクセント記号は省略)

 

シルダの初導入時(アリアン1の5号機)のフェアリングのイラスト

1982年9月に打ち上げられたが、第3段のHM7エンジンの不具合で打ち上げは失敗

 写真:CAPCOMSPACE

 

初期シルダの分離テスト

写真:CNES

 

 

2. 次のバージョンの開発案を提出

 

さて、アリアン1ロケットの開発も後半に突入した1976年、CNES(仏国立宇宙研究センター)はアリアン2とアリアン3の開発をESA(欧州宇宙機関)に提案します。これらは全く新しいロケットでなく、アリアン1の改良型と言える物です。

 

フランスでアリアンの歴史を紹介する講演会に行くと必ず聞くのが、「その時開発中の型の初号機が打ち上げられる前に、CNESはその次のバージョンの開発を提案してきた」という話です。語り口のニュアンスは「我々はいつも先の需要を見越して早めに対応してきた」といった感じです。下の図をご覧ください。アリアン1ロケットの初号機打ち上げは1979年ですが、それより前の1976年にCNESはESAにその次のアリアン2、3の開発提案書を出しています。またアリアン4の開発提案はアリアン2、3の初号機が打ち上げられた1984年より前の1981年となります。アリアン5についても同じパターンです。(ESA加盟国による各ロケットの開発の承認はCNESの提案より遅くなります。)

 

CNESのロケット本部が準備設計をまとめて、

ESA或いはESA加盟国に開発を提案した時期

 

 

アリアン1からアリアン4までは基本的なコンセプトに変わりはなく、エンジンの推力アップや大型化、ブースタの追加などで改良してきました。つまり次の型というより改良の連続ですので、開発中に少し先を見越した推力アップ・効率アップの手段を検討し、その開発の決断を問うのはそれほど思い切ったことではなかったかもしれません。

また、アリアンという名前は受け継いでいるものの、全く設計が異なる「新開発のロケット」であったアリアン5の場合は、開発の大きな目的の1つに「往還機(エルメス)を打ち上げよう」という、その時代特有の要請がありました。今までの「静止衛星の打ち上げに特化する」という方針とは異なるものです。この要請のために設計案を提出する状況は今までと違っていました。(その他のアリアン5開発の大きな目的は、構造の単純化によって抜本的な製造コスト削減をすること、打ち上げ能力をさらに大きくし衛星の大型化に対応することでした。)

 

しかし、事実としてアリアン5までは次の型の設計研究をまとめた開発提案書を、その時開発している型の初号機打ち上げより早く提出する形になっており、それが、欧州、特にフランスに「この開発提案のタイミングの早さが我々のロケット・プログラムの伝統だ」と言わせる理由になっています。そしてこの伝統は、アリアン1の初号機も打ち上がっていない1970年代後半から形作られてきたものでした。

 

ところで、現在欧州ではアリアン5が運用されていますが、その先のロケット、アリアン5ME(Midlife evolution:2016年辺りから運用予定)とアリアン6(仮称、2025年以降運用予定)の開発について、ESAや欧州諸国が確実にプログラムを承認し進めていくのかどうか、予算を充分に出すのか、が注目されています。来年(2012年)のESA閣僚級会議の際に、ある程度の答えが出る予定ですが、この件で懸念を感じている人たちは上記に挙げた「欧州は常に先のことを考えてロケット・プログラムを進めてきた」という伝統を頻繁に例に出し「今は現実感がないかもしれない未来の事でも、ロケット開発は一朝一夕にはできないのだから早めに対応しなければいけない。今考えて、きちんと予算を充てなければいけない」と主張しています。

 

また、上記1 で紹介した2機同時打ち上げについて、将来のアリアン6に導入するかどうかも現在予備設計研究段階で検討されています。同時打ち上げを行う利点と、同時に打ち上げる衛星2機のカップリングにおける不都合とが天秤にかけられている状態です。

 

  1972年末にCNESが欧州諸国に提案したL3Sロケットからアリアン3までのエンジン系の主なバージョンアップは下の図のようになります。赤字で記した部分が主な変更点です。それぞれ少しずつ連続的に改良されていく様子が見て取れるでしょうか。その他の、機体を長くする、電気系統のシステムを改良する、などの変更は図に入っていません。またイラストのロケットの形や大きさは実際の物と比例関係にないことをご了承ください。L3Sまでのエンジンの発展は欧州の宇宙輸送の発展 (5)ELDOからアリアンへ 1.技術の流れ http://www.soranokai.jp/pages/yusoukei_Europe_7.html をご覧ください。

 

L3S to Ariane 3

 

 

 

3. その他、技術面で気にかけた事の例

 

 アリアンの開発も他のどのロケット開発の過程と同様に、様々な問題が浮かび上がりそれを解決しながら完成に至ります。その中でもアリアンの場合によく話題になるものを挙げるとすれば、まず極低温技術エンジンを導入した第3段の成否ですが、その次にはポゴ振動をかなり気にしていたことが挙げられます。

フランスのディアマン・ロケットではポゴ振動に悩まされました。例えばディアマンBの初号機打ち上げはそれが原因で成功しませんでした。そこでアリアン・ロケットは最初から対ポゴシステムを導入する形で設計されていました。

そして開発中に検証を重ねているうち、3段目のH8ステージには対ポゴシステムは必要ないだろうと判断され、1978年初頭には導入しない形に変更しました。2段目についても1979年になって一旦必要ないだろうと判断されたため、アリアン1の初号機、2号機はシステムを付けずに打ち上げを行いました。しかし、実際の飛行を経験し、やはり必要だということになり、3号機から用いられることになりました。第1段ではN2O4(四酸化二窒素)の方だけ付けられました。

 

また、ロケット自体の技術ではありませんが、CSG(ギアナ宇宙センター)で開始されるアリアン・ロケットの打ち上げのために、ロジスティクスにも気が回されました。フランスのセーヌ川に近いアエロスパシアル社から南米の仏領ギアナにあるCSGまで、巨大で高価で繊細な構造物を輸送します。アエロスパシアル社からルアーブル港までの搬送、そこからの海送、そしてギアナの港に着いてからCSGまでの搬送、それぞれの荷揚げ、荷降ろし、と、全作業を滞りなく実現することは、当時のロジスティクス責任者にとっても、アリアン・プログラム統括本部にとっても気を使う重要な業務だったようです。

関連文書を読んでいてフランスらしいなと感じた点は、フランスではストライキが頻繁なため、セーヌ川を船で運ぶ水運に加えフランス内陸を陸送する場合の2つを用意し、水運がストライキで一定期間利用不能になっても機体の運送は保証されるようなプランを立てていた、ということです。

 

 

4. 最初の打ち上げ挑戦:1979年12月15日

 

 アリアン・ロケット開発期間の終盤、初号機の打ち上げ準備は計画を大きく遅らせるような大きな問題もなく着々と進み、ついに1979年12月15日、初号機の打ち上げ日となります。ジスカール・デスタン仏大統領も打ち上げの様子を観るためにエヴリ(パリ近郊)にあるCNES輸送本部に赴いています。

 

しかし、この日の打ち上げは途中で中断されてしまいました。第1段のヴァイキング・エンジンに点火したものの、10秒後、エンジンは自ら燃焼を停止しました。コンピュータが、4基あるエンジンのうちの1つ、エンジンAに「圧力が不足し推力が充分でない」という信号を出し、そこから自動的に第1段の4基全部の燃焼停止となったのです。

ヴァイキング・エンジンは今回初めて一から開発したものはなく、過去に実績のあるエンジンを基にして開発したものでありましたし、試験段階でもほぼ安定した燃焼を見せていました。そのため、この点火後の燃焼停止はスタッフにとっては驚きの現象だったようです。

やがて、その後の検証から誤っていたのは信号を出したシステムの方だったと判明します。

 

さて、この日の打ち上げ準備では、舞台裏でもう一つの出来事がありました。このエピソードは政治的問題や国際協力の観点から宇宙機関の公式サイトには出てきませんが、アリアン・プログラム統括本部のエンジニアであったモラン氏が著したアリアン誕生の回顧本や、元SEP(現スネクマ)の幹部技術者で現在は宇宙専門コンサルタントのジャック・ヴィラン氏が著した本に書かれています。2冊の記述を総合して事の次第を簡単に紹介すると以下のようになります。

 

打ち上げ当日、大西洋上空を警備していたフランス海軍の飛行機が、アリアンの飛行予定経路の下にあたる海上に2隻の船舶を見つけました。2隻目はちょうど2段目と3段目の分離が行われる地点におり、そして彼らはアリアンの自動破壊システムに関連する周波数でかなり強い妨害信号を出しているとのことでした。仏海軍機が双眼鏡で観察してみると、甲板には誰もいないが、船にはそれぞれロシア語の船舶名が書かれているといいます。

アリアン・チームに緊張が走ります。彼らは打ち上げにはこのような事もあると聞かされていていました。しかし、アリアンの打ち上げを何故ソ連が妨害しようとするのかについて腑に落ちない点もありました。ソ連は「欧州がロケット打ち上げに成功すれば、アメリカの覇権も揺らぐ。西側内のバランスを崩すことにつながる」といって欧州のロケット・プログラムを歓迎していたはずです。そしてこの意図に加えフランスとの宇宙協力もあって、ソ連は燃料のUDMH をアリアンに供給しています。

刻々と打ち上げ時刻が迫る中、アリアン・チームは海軍機に精緻な写真を撮影するよう依頼し、その写真をパリの海軍参謀本部で分析してもらいました。

尚、この件は現場スタッフの動揺を防ぐためと、国際関係上の新たな危機を容易に生み出さない、という意図から、その時招集されたアリアン・プログラム幹部の間だけに留めておくよう指示が出されました。

 

蓋を開けてみればこの2隻の船舶は、実はアメリカの軍艦だったことが判りました。フランス側は改めて2隻に「電波を止めただちに立ち退かなければ、カーター大統領に政府レベルで抗議することになる」と退去を求めます。それから2隻は速やかに去って行ったそうです。

 

 

5. 打ち上げ中断とメディア

 

さて、15日の打ち上げ中断後、再度打ち上げをチャレンジするため、実務部隊にとっても統括本部に大変厳しい1週間あまりが続きます。この数カ月の打ち上げ最終準備期間中、アリアン統括本部は打ち上げの仕切り直しを想定し、そのためのシミュレーションも行ってきましたが、何しろ現実の作業は初めてのことです。また、ELDO(欧州ロケット開発機構)のEuropaロケット計画の蹉跌がプレッシャーになっていたため精神的にも辛い日々です。

更に、再設定された打ち上げ日12月23日まで24時間を切った12月22日、再び問題が発生してカウントダウンが中止されます。第3段のヘリウムタンクの減圧の他、小さな技術問題があったことが原因です。それに対処しているうちに気象条件も悪くなり、23日の打ち上げは翌日に延期されました。

いよいよスタッフたちの緊張も疲労も最高潮に達します。外からのプレッシャーもありました。

 

ちょうど前述のヴィラン氏の本で、この時のメディアの報道が紹介されていましたので、ここでその点について言及しておきます。

 

数々の報道の中には批判的でないものもありましたが、

「熱帯雨林で火薬は湿る」(熱帯雨林にあるギアナ宇宙センターで燃焼しなかったエンジンを揶揄して)

「アリアン・ロケットは地対地ミサイル」:垂直方向に高く上昇しない=地面にへばりついている

など、この12月15日、23日の打ち上げ延期について、メディアの表現は厳しいものでした。

 

今でこそ「アリアン・ロケットは『飛ばないロケット』だ」と報道するメディアはありません。また「その飛ばないロケットのために税金を無駄遣いしている」という書き方をする一般紙もありません。昨年(2010年)の前半、アリアン5は数度燃料供給系(加圧システム・バルブ等)に問題があり、大幅に打ち上げスケジュールが遅れました。しかし、どのメディアも「アリアン5が2度と飛ばない」とは書かず、それより「部品調達管理の見直しを」「この遅れによりどんな影響が出るのか」など、原因究明と解決について論じる記事が多数見られました。

 

このようにメディアの報道指向がこの30年の間に変わってきた理由は、もちろんアリアンが着々と成功を重ね信頼性の高いロケットに成長してきたことにあります。それが一番でしょう。しかしそれに加えもう一つ、政策決定者や行政側のメディアに対する努力も挙げられます。

例えばフランスでは航空宇宙は国内の主要産業ということもありますが、何かにつけ担当大臣は宇宙分野のことをメディアに話したり、現場に出向いたりしています。そこで政策決定者や行政担当者は、彼らがこの事業への予算投入を決断した正当性や必要性を話します。この行為が続いていくことによってメディア側の態度も変わって行きました。

そして、報道する側の事情でも、例えば「記者のポストが変わる」といった場合、日本では「航空産業担当から食糧産業へ」など分野の変更を伴う異動は頻繁ですが、欧米では「分野は変えず、勤め先を変える」というケースが多いため、記者の専門分野の知識は維持されやすくなります。

その環境ですと、発言者がおかしなことを言った場合は見抜かれやすく、逆に、失敗が起こった際に行われる技術的な説明は技術的な専門知識をもって評価される形になります。

この点がフランスのメディアを見ていて気付いた点です。

もちろん「インパクトのある話」「面白く書かねば売れない」という大衆メディアの特性もあり、フランスでも全部が全部適切に報道されるわけではないこと、付け加えておきます。

 

 

 

6. 初号機打ち上げ:12月24日

 

いよいよクリスマス・イブです。

15日、23日の打ち上げ準備の際に液体酸素をかなり消費したことが影響し、これが最後の打ち上げ挑戦の機会と決定されました。フェアリングの中にはCAT-1(アリアン技術試験カプセル-1)が収納されています。

 

しかし、この日も全て何事もなくカウントダウンが進んだわけではありませんでした。

まず第2段のヘリウムガスの充填で警告灯が点き、対処に90分程かかり、その分打ち上げ時刻も伸ばされました。その後作業は手順通りに進み、ついに点火まで辿り着くかと思いきや、2分14秒前に第3段の酸素バルブに警告灯が点きます。バルブが閉まるのが3秒遅れたためです(8秒内の予定が11秒だった)。再び対処します。しかし次はロケットと打ち上げ管理コンピュータとの通信エラーが原因でコンピュータがGOサインを出しません。結局物理的に線をつなぐという措置でこの問題をクリアし、再びカウントダウンを開始します。

 

そしてついに1979年12月24日、現地時間14時14分38秒(GMT17時14分38秒)、欧州が「自分たちが自由に使える自分たちのロケットを持ちたい」と思い続けて開発したアリアン・ロケット初号機は打ち上げられました。

 

各段の燃焼も順調、分離も順調、追跡局からのデータにも異常なし。そして、ペイロードのCAT-1は静止トランスファ軌道へ送り込まれました。

欧州諸国が協力して開発したロケットの初めての打ち上げ成功です。

 

 

今度は辛らつなことを書くメディアもありません。スタッフの喜びも絶頂です。その時のエピソードで有名なのものは、打ち上げ成功後アリアン統括本部の10人弱は、打ち上げの際にノズルから噴出する極低温の酸素がギアナの湿った空気に反応して生成された雪で、喜びの雪合戦をした、という話です。下の写真が雪合戦の様子です。その中にCNESの総裁ユベール・キュリアンも混じっています。そのキュリアン(当時55歳)は後に「こんなに嬉しかったのはバカロレア(フランスの大学入学資格試験:大抵18歳頃に受ける)に合格した時以来」と語っています。

 

アリアン1初号機打ち上がる。1979年12月24日

写真:CNES/ESA/CSG Service Optique, 1979

 

打ち上げで発生した雪で雪合戦

右の黒い背広の人物:当時のCNES総裁で後に仏研究大臣の職にも就くユベール・キュリアン(Hubert Curien)

写真:CSG Service Optique

 

 

 

7. むすび

 

こうしてアリアン・ロケット初号機が打ち上がりました。しかしこれは終点ではなく、ここからが始まりです。特にアリアン4が順調に成功を続けていくまでは失敗に悩まされる時期が続きます。

その後アリアン・ロケットは信頼性も向上し、商業打ち上げ市場で躍進を続けるロケットに成長していきます。

 

さて、アリアン・ロケットの初号機打ち上げで、このシリーズでも1つの区切りをつけることができました。しかし、まだまだ欧州・フランスの宇宙輸送分野について紹介していきたい題材がありますので、今後もコツコツと寄稿を続けていきたいと考えております。次回以降も宜しくお願いいたします。

 

つづく